遣隋使は <聖徳太子・遣隋使・歴史>
7世紀初頭、聖徳太子が摂政のとき、日本から隋に派遣された公式の使節。
600年に始まり614年まで前後6回に及ぶ。
ただし、600年と610年の2回の使節派遣などは『日本書紀』にその記載がなく、それぞれ『隋書』東夷伝・煬帝紀に記されており、遣使の史実性に疑義がもたれている例が多く、ほかに3回説、4回説、5回説がある。
また、600年の遣使は「姓は阿毎、字は多利思比孤」が使者を派遣したとあり、この人物をだれに比定するかについて従来より諸説がある。
すなわち推古天皇と舒明天皇とを混同したとする説、小野妹子が孝昭天皇の皇子天帯彦国押人命を出自とするということからそれと推古天皇との混同説、あるいは聖徳太子とする説などがある。
しかし「タリシヒコ」は当時の天皇一般を表す語で、太子の事績などからやはり聖徳太子と解するのが妥当であろう。
607年の遣使には大礼小野妹子らが派遣され、このときは仏法を習得することを目的として沙門数十人も同行したが、提出した天皇の国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と、隋と対等の礼で書かれてあったために「蛮夷の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ」と煬帝を怒らせたという。
翌608年、妹子は隋使文林郎裴世清とともに帰国、同年再度使節として渡隋。
このとき、高向玄理、僧旻、南淵請安らが留学生、学問僧として同行した。
彼らは二十数年間にわたり隋唐の制度・文物についての新知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。
遣隋使は614年の犬上御田鍬らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていくことになる。
600年に始まり614年まで前後6回に及ぶ。
ただし、600年と610年の2回の使節派遣などは『日本書紀』にその記載がなく、それぞれ『隋書』東夷伝・煬帝紀に記されており、遣使の史実性に疑義がもたれている例が多く、ほかに3回説、4回説、5回説がある。
また、600年の遣使は「姓は阿毎、字は多利思比孤」が使者を派遣したとあり、この人物をだれに比定するかについて従来より諸説がある。
すなわち推古天皇と舒明天皇とを混同したとする説、小野妹子が孝昭天皇の皇子天帯彦国押人命を出自とするということからそれと推古天皇との混同説、あるいは聖徳太子とする説などがある。
しかし「タリシヒコ」は当時の天皇一般を表す語で、太子の事績などからやはり聖徳太子と解するのが妥当であろう。
607年の遣使には大礼小野妹子らが派遣され、このときは仏法を習得することを目的として沙門数十人も同行したが、提出した天皇の国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と、隋と対等の礼で書かれてあったために「蛮夷の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ」と煬帝を怒らせたという。
翌608年、妹子は隋使文林郎裴世清とともに帰国、同年再度使節として渡隋。
このとき、高向玄理、僧旻、南淵請安らが留学生、学問僧として同行した。
彼らは二十数年間にわたり隋唐の制度・文物についての新知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。
遣隋使は614年の犬上御田鍬らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていくことになる。
update:2010年03月16日
